群馬県にある石倉城のエピソード

石倉城築城の歴史

 

 

群馬県前橋市にある石倉城は1485年、蒼海城城主で上野国守護代、長尾忠房の子長尾憲景が築城しました。
時代はちょうど応仁の乱が終わってから8年がたった頃です。
石倉城は蒼海城に代わる新たな居城として築城されました。
この石倉城は利根川の河岸に築かれた城です。
当時の利根川は今の位置よりもかなり東を流れていたと考えられており、石倉城はその利根川の水を利用して城のお堀に水を引き入れ、防衛設備としました。

 

 

戦国時代の重要拠点であった石倉城

 

関東の領有権を巡って、山内上杉家と扇谷上杉家の対立が深まり、太田道灌や北条早雲などが現れ、関東でも戦国時代の色が濃くなってきます。
石倉城を築城した長尾憲景は1512年新井城の戦いで戦死します。
代わって三男の長景が城主となりました。
1563年に上野は武田信玄の脅威にさらされます。
このとき長景は厩橋城(前橋城)の守備についたため、武田信玄に留守の隙を狙われ奪われてしまいました。
信玄は曽根七郎兵衛、輿左衛門の兄弟を城代として置いて、石倉城を守らせました。
その2年後、今度は上杉謙信が石倉城を攻めて取り返しました。
そして謙信も石倉城に荒井甚六郎を城代として置き、守備を命じました。
翌年、今度は武田信玄が再度攻め入り、石倉城を奪還。
今度は武田四天王の一人、内藤修理亮昌豊を置くなど今度はがっちりと守備を固めます。
武田、上杉がたて続けて狙うほど石倉城は地理的に重要な拠点だったのです。

 

 

石倉城の最期と現在

 

 

これまで城を預かっていた内藤修理亮が長篠の戦いで討ち死にすると、次に石倉城を支配したのは北条氏でした。
北条氏は寺尾左馬助を城代として城を守らせました。
しかしその北条氏も1590年の小田原の役で滅ぼされ、石倉城は徳川勢の侵攻に対し果敢に戦ったものの、自ら火を放ち落城となりました。
その後は近くの厩橋城がこの周辺の要となり、石倉城が再建されることはありませんでした。
現在は小さな石碑と案内板があるだけの小さな遺構として残っているだけです。
石碑は福田赳夫元総理の書として残されています。

 

 

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