城これで登場する鹿児島城について

中世の館を色濃く踏襲した鹿児島城

 

鹿児島城は標高107mの中世上山城跡の東麓に築かれた平城です。
最も特徴的なのは、中世以来の館造りを踏襲し、天守や重層櫓はなく、華麗な御殿建築のみで構成されていました。
関ヶ原の戦い後の1602年に築城が開始されています。
1615年に一国一城令が出されますが、鹿児島は例外としてこれまで本城の外にあった外城が認められ、領内各地に外城が分散していたため、本城である鹿児島城を要塞化する必要がありませんでした。
そのため、近世城郭では珍しく防御構造の薄い中世的な居館となったのです。

 

 

島津氏の歴史

 

鹿児島城は九州の雄、島津氏の居城です。
島津氏が戦国大名としての基礎を築いた島津元久から貴久までの約170年間は鹿児島城の北東にある清水城を居城としました。
島津貴久の代でより交通の便の良い内城に居城を移し、島津義久、義弘の代でほぼ九州全域に対して影響力を持つ大大名に成長しました。
豊臣秀吉の九州平定によってあとから獲得した領地を失い、さらに関ヶ原の戦いでは西軍についたことで敗戦の憂き目にあいます。
しかし、島津義弘の戦後巧みな外交手腕によって、西軍についた諸大名が改易を受ける中、本領安堵を得ました。そして始まったのが鹿児島城の築城なのです。

 

 

鹿児島城が出来た背景

 

新城の築城を巡っては島津義弘と家久親子は激しく対立しています。
義弘は海岸に近いと船からの攻撃を受ける可能性があることと、度重なる財政出費を考えて、これまで本拠地としていた清水城の再利用を主張しました。
対する家久は交通の利便の良さや城下町の建設を考えて、清水城の南西で上山城のあった城山山麓の地を主張しました。
家久は時代の流れを察知し、もはや山中城郭の時代は去ったことを知っていたのです。
この親子の争いは家久に軍配があがり、平地居館である鹿児島城が完成したのです。

 

 

宝永以降の鹿児島城

 

1696年、鹿児島城は火災により本丸が全焼し、二の丸の一部も類焼する被害を受けています。
その後復旧工事が行われ、1704年に再建がされました。その後は明治維新までその姿を保ち続けています。
明治以降は、軍の施設がおかれましたが、1873年に火災によって本丸が全焼。
1877年には二の丸も炎上しています。
さらにこの年西南戦争が勃発し、西郷隆盛は鹿児島城背後の城山に籠城し、ここで最期を迎えています。

 

 

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