甲賀市にある水口城のお話

水口岡山城の廃城まで

 

 

滋賀県甲賀市にある水口城は1585年豊臣秀吉が中村一氏に命じて作らせた水口岡山城が基盤になっています。
その中村一氏も1590年の小田原攻めの後、徳川家康が関東に移ったことをきっかけに駿河に14万石で移封になりました。
代わって水口岡山城に入ったのは五奉行の増田長盛でした。
しかしその増田もすぐに大津城に移封になり、代わって同じく五奉行の長束正家が入城します。
1600年の関ヶ原の戦いで正家は西軍(石田方)に味方したため、戦後水口岡山城は廃城となりました。

 

 

将軍様の御旅所として

 

 

その後、水口は幕府直轄領となり、徳川幕府三代将軍徳川家光の上洛に合わせて再度築城されたのが水口城です。
将軍の宿舎である御旅所として築城されたため、城と言いながらも天守はなく、御殿を中心とした方形居館の形をとっています。
敷地の北東には多聞櫓を建て、四隅には櫓を作り中心の御殿を守っています。
大手には南北16間の出枡形が築かれ、一の門である御成門は高麗門、二の門は櫓門、北にある北大手門は鉄門と呼ばれました。
縄張りは京都の二条城をコンパクトにした形をとっています。
築城を担当した作事奉行は小堀遠州で、江戸城や名古屋城、大坂城の築城でも作事奉行を担当した城作りの名手です。
1682年には会津の加藤明成の長男明友が水口城に入り立藩しました。
一時鳥居氏が入りますが、再度加藤氏が入り、明治維新まで加藤氏の居城として続きました。
当時の水口城は清らかなお堀の水から「碧水城」の異名もあります。

 

 

明治維新以降の水口城

 

 

明治維新の後、水口城は廃城になり、公売にかけられました。
隅櫓は商家に、石垣は近江鉄道に売却されました。
現在、本丸のあった場所は滋賀県立水口高校のグラウンドになっています。
またお堀の一部はテニスコートとして活用されています。
水口城は城跡が県指定史跡に指定されたのを機に、平成になって復元され、資料館として活用されている乾櫓や堀、橋、虎口は形態、位置ともに異なる模擬復元となっています。

 

 

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